私(高野憲一)が高次脳機能障害と同名半盲に成った原因・要因

                                                         
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皇紀2669年(2009年)平成21年4月19日(日)・・・忘れもしない・・・私(高野憲一)が健常者から一瞬にして急転直下し『高次脳機能障害』と『同名半盲』たる『障害者』に急転降下したという・・・ある日、突然・・・降って湧いた様に障害者に成ってしまった決して忘れられない悲劇の日なのである。

 

子煩悩と謳われていた私は長女『なつき』を片っ端から様々な場所に連れて行く中で、この日は鉄板で連れて行く恒例の『成田太鼓祭』の日(自転車で15分程度)なつきの事をいつも通り自転車の後ろに乗せ成田太鼓祭に赴いた訳だ(当時なつきは6才)

行きは難無く『なつき』を自転車の後ろに乗せて行き午前中には成田駅に到着し自転車を駅前のセブンイレブンに停め、参道まで歩きこの様々な有名な団体が乗り込んで来る成田太鼓祭に『なつき』に迫力満点の和太鼓を徹底的に堪能させ、夕方に成田太鼓から離脱する事を決め(午後6時)不思議な事にこんな事は今まで一度たりとも皆無だったのだが、ここから奇跡が始まる・・・私が『なつき』に対して『今日は帰りは自転車を押して歩いて家に帰るぞ一旦、自宅に帰ってから産婦人科に行くからな』と、なつきに告げ私が自転車を押しながら2人でトボトボと歩き始めた(こんな事を何故になつきに告げたのか私でも到底考えられないが既に奇跡が起こり始めていた)

 

因みに、この日は次女(あさ)が産まれる日。

成田駅から家まで徒歩で帰る場合は優に30分は掛かる。

家に帰るに当たって、最後の坂を超えれば最早、家とは目の鼻の先なのだが坂に登る前に2人でコンビニに寄りコンビニを出て相変わらず『なつき』の事を白線の内側に歩かせトボトボと坂を登り始めた、ここでも第二の奇跡とも言える『なつき』は、子供がよく行う縁石に乗りフラフラと遊びながら坂を登り始めた(コレが、なつきが全くの無傷で済んだという奇跡的な運命を決める一因と成った)

私が、この二車線でも無い一方通行でも無い坂道の白線の内側にて自転車を押して更に『なつき』の事を内側に歩かせるシチュエーションを想像して欲しい。

午後7時付近・・・坂道の中腹に差し掛かった時に私と押していた自転車だけ車に正面衝突を喫し跳ねられた訳だが跳ねられた瞬間は全く記憶には無いが、いずれにせよ私は『普通乗用車』に跳ねられた(私と自転車丸ごと)

長女なつきは縁石で歩いていたので『かすり傷一つ無かった』(後に知る)

いずれにせよ私は時速50㌔代の車に跳ねられた!!

閑静な住宅地(成田ニュータウン)で凄まじい衝撃音が鳴り響き沢山の人々が家から出て来た事も後に知る。

車に正面衝突を喫しフロントガラスに頭が直撃し私はたちまち『意識不明の重体』に陥り耳や鼻から大量の血を流し119番に通報され救急車で成田ニュータウン成田赤十字病院に意識不明の重態のまま運ばれた。

後に知るが私が救急車で運ばれ成田赤十字病院に運ばれ医者達は『申し訳御座いませんが手の施し様が無いです』と見解を既に示し都内の高野家一族を呼び出し改めて医者達は一族に向け『大変恐縮で言いづらいのですが今夜・・・お通夜の御覚悟をされて下さいませ・・・大変・・・申し訳御座いませんが・・・我々には手の施し様が御座いません・・・。』と医者達が居並ぶ高野家一族に告げる(元々、私は実家が常に都内の都内育ちのバリバリの都内っ子)

この時、私が車に跳ねられた病名は『急性硬膜下血腫』に『脳挫傷』に『頭蓋骨2本骨折』に『右脳の壊死』『左肩肩甲骨の骨折』『左足膝下骨折』たる文字通り死線をさ迷った・・・。

この時、意識不明な重態の死線をさ迷っている最中、一生忘れられない『神々しい臨死体験』もする(詳細はブログを更新してゆきながら順番に書いてゆこう)

 

追伸:高次脳機能障害者・同名半盲者に成ってしまった余りにも過酷過ぎる『悲しき男』の未来を如実にも赤裸々に語り、皇紀2676年前から存在したで在ろう高次脳機能障害者・同名半盲者を日本国に広く知り渡って頂く為、私の様に悲惨な未来を回避させんが為、かつ後世の人々に伝達して行きたいので、この度ブログを立ち上げて本の出版をする事に身を託しましたm(__)m

 

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