千葉リハビリテーションでの入院生活と徹底的な心理テストと『同名半盲』


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千葉リハビリテーションに入院し毎日、心理テストを五月雨式・徹底的に受けた私『高野憲一』

種類が多種多様・・・有り過ぎて毎日違う内容のテストを受けるので記憶が欠落している部分も有るのだが、覚えている範囲内で書き記してゆこう。

 内容は様々で、とある日は日本人ならではの一般的な通念や知識の質疑応答の繰り返しだったり『今の内閣総理大臣の名前は御存知ですか?』や『燃えるゴミは何故に燃えるゴミの日に捨てるんですか?』や『今は平成何年ですか?西暦何年ですか?』や『今は春夏秋冬のどれだと思われますか?』や『今は何月だと思いますか?更には本日は何日ですか?』や『100からひたすら7を引いて引けなくなるまで引いてってお答え下さい』や『日本国の初代の総理大臣の名前は御存知ですか?』など質疑応答され、私は殆ど答えられないで終わる日も在れば、とある日は小学生でも容易なので在ろうパズルを出され嵌め込んでみて完成させて下さい。と告げられ全く出来なかったり、またとある日は積み木を出され紙に書かれてある絵図の形通りに組み合わせて下さいと告げられ極めて簡単な組み合わせなら完成出来たが・・・チト複雑に成ると完成出来なかったり、とある日は千葉リハビリテーションの内部を心理テストを行う方と一緒に練り歩き続けて、病院内の様々な場所を歩き終わった時に今度は『どこどこの場所に行きましょう案内をして下さい』と私に告げられ歩くこそするが目的地には全く行けずに『今度はここを案内してみて下さい』と繰り返し告げられたのだが私には、その殆どの案内をする事は不可能であり・・・総崩れ状態だった(この後、出してきた画用紙に高野さんの自宅内部を書いて下さいと告げられたが・・・これまた適当にしか書けなかった)

とある日は、パソコンの前に座り予め決められている数字や色や図形などが画面に出てきたらキーボードを押して下さいと告げられ、ひたすら指示通りにキーボードを押し続けたり、またとある日は『物語』を述べてこられ全ての物語の話を述べ終わった時に、その物語の登場人物は名前や物語の内容をどれだけ覚えているかを質疑されたり、また違う日は図形の違いを見極めるテストだったり、決められた平仮名に〇を付けて下さいや決められた同じ数字を見付けて下さいと様々な角度から毎日の様に多角的に徹底的に私の能力のレベルを調べ上げられ千葉リハビリテーションでの心理テストの結果は『知能指数64』『動作性56』『言語性77』だと和田先生により告げられ病名は『高次脳機能障害です』と正式に診断結果を下された。

この時の私の胸中では『高次脳機能障害?聞いた事も無い病だが、そのうち治るんだろ・・・』と自覚症状も全く無く完全に楽観視をしていた。

して千葉リハビリテーションでの入院生活の中で一番困ったのは『喫煙』だった、妻が御見舞に来る時だけ病院の外の林での喫煙所での喫煙が主治医から許可をされ、病室の入口のドアの出入りは看護師に逐一口頭で告げないと病室から出られく・・・私は看護師達に『外の空気が吸いたいから10分程度で戻って来ます』と理由を付けて林の喫煙所まで行こうと何度も試みたが看護師達は何だのこんだのと理由を述べて扉から一切出してくれなかった。

今でこそ病院敷地内全てが日赤病院では禁煙だが、少なくとも7年前の日赤病院はアバウトであり、病院の玄関を出れば敷地内に長いベンチが何本も在り、御丁寧に自動販売機も設置されており、煙草を吸いながら飲み物を買い空き缶を灰皿代わりにして他の患者さんと雑談するシチュエーションが当たり前の光景だったので、千葉リハビリテーションの入院生活での温度差には非常に参りました。

自宅から日赤病院には車で『13分程度』が千葉市緑区誉田までは車で1時間以上は掛かるので妻の御見舞が激減化したのも拍車を掛けた・・・。

煙草大好きな私は今思えば高次脳機能障害者ならではの打算的な考えだったのだが病院の便所で煙草を吸う事を決断した。だが何故だが、この便所には扉なんて無くカーテンの様な物であり、簡単に開け閉めを出来るシステムに成っていたのにはプライバシーを守れて無く一抹の不安が有ったのだが、ひとまずは第一回目の喫煙は成功したのもつかの間、次の日の朝にカーテンを閉めて、糞をしながら煙草を吸っていたら・・・突然2人の女性看護師達がカーテンを勝手に開けて特に一人が怒鳴りこんできたのできたので、私は瞬発的に看護師に向って『プライバシーの侵害ではないか!!まだ俺は糞をしている最中なのだぞ!!』と反論をし煙草を消した(この看護師達の素早い行動には便所には監視カメラが設置しているのか、常に見張られているのかどちらなのか全く該当する理由が見つからなかった記憶が未だに鮮明に記憶に残っている)

私が今思うに便所での糞尿行為はプライバシー問題であり必ずや守られなくては成らない空間だし、これが仮にも『監視カメラ』なんざを設置していたとしたら社会問題だと私は今でも思う。

して私が糞をしながら喫煙してた事を看護師達は早速、主治医の和田先生に報告をした模様で、その日のうちに主治医から呼び出されて和田先生により滅茶苦茶怒鳴られた。

ここで私は、この不自由でマトモにも自由な行動を取れない千葉リハビリテーションを『即座に退院し己の自由を守る事を絶対に貫き通す!!』という確固たる信念からの覚悟を決めて『中度知的障害者』ながら作戦を立案をした、それは妻を協力者にさせる事であった。して次に妻が御見舞に来た時に妻に向って『もう・・・入院生活にはウンザリなのだ!!俺が退院すのに何が何でも協力し助力をしてくれたまえ!!』と事前交渉をしたが妻はどこまでも否定的では有ったのだが・・・妻と千葉リハビリテーションの駐車場の車の中で2人で長時間話して己の心情の全てを露呈し、結局だが妻は渋々・・・主治医の元まで来させて・・・イザ!!主治医の和田先生の元に夫婦並んで私から正々堂々と和田先生に向って『本日を持って俺は退院を致す!!俺は何もかも束縛されるのは最早・・・真っ平御免なので、このまま退院をし荷物を持って絶対に自宅に俺は帰ります!!』と和田先生に強弁したところ、本日退院する交換条件として『月1の通院からの薬の処方と週一のグループ訓練という脳のリハビリにだけは通院を必ずして下さい』と条件を持ち出してきたので私は本日中に帰りたい一心で、その条件を仕方無く呑んだ(結果的に今思うと、この判断は良かったと思える)

早速『退院手続き』を早急に済ませ、荷物を纏めて車に乗り込んだ。

そして・・・いよいよ『高次脳機能障害』の私を囲んだ、妻の高野直子に長女のなつきに次女のあさに妻の両親である小倉義生・小倉和子と再び暮らす自宅療養が始まった(コレが後に小倉家ひいては妻の直子により私が果てしない地獄のドン底まで叩き落とされる多大なる大不幸な未来に繋がるとは、この時点では私には予想ただにつかなかった)

ここでブログの記事の主題に書き記した『同名半盲』の話に繋がるのだが、先ず正面に人と向き合っても左耳や左肩が全く見えない事に何度試しても『見えない物は見えない』と結論に辿りついた、自らの左腕を挙げても正面まで腕を曲げないと見えない事も気付き、よく左足からつまづく様に成ったり、左肩をぶつける様に成ったりする事が頻繁に多発し食卓に料理が並べていても左側の『おかず』が置いて在るのも逐一・・・首を左に向けるか両目を逐一ギョロりと動かして左側を見なければ何もかも見えなく成っていた。

歴史が好きな私は己自身を冷静に考察をしてみた(本能からなのだろう)正面から右側は見えるのに何故ゆえに真正面から90度左側だけが全く見えないのだと、先ずは徹底的にググって検索をしてみたが『半側空間無視』や『同名半盲』たる病名に辿り着き、千葉県では極めて質の高い成田図書館(二階は貸し出し禁止の文献が存在する)に出向いて高次脳機能障害関連の本や目の病の本を大量に借りてきて片っ端から読んだところ『これら・・・本は俺の事を見て書いたのではないのか?今の俺そのまんまではないか!?』と特に高次脳機能障害の本は今の私そのまんまだった・・・早速、妻には沢山借りてきた高次脳機能障害の本と目の病の本でも『これは大変な病だから先ずは高次脳機能障害の本を徹底的に読んでみてくれ』と指示をし、ついでに高次脳機能の事を詳しく図解し説明されているのをインターネットでググって検索をしてガラケーの『お気に入り』に一旦入れ、その高次脳機能障害関連をお気に入りから妻のメールにURLを貼り付けては何度も何度も送ったのだが・・・成田図書館から選んで借りてきた沢山の高次脳機能障害の本にせよ高次脳機能障害たる病をにお気に入りから抽出しメールにURLを貼り付けて妻の携帯電話に送った物にせよ『妻は本の一ページすら残念ながら全く読んでくれなかった。に加え比較的・・・読み易い筈で在ろうグーグルからのインターネットならではの『高次脳機能障害の入門編』に関連する記事すらも全く読まずに拝見すらもしてくれなかった(この妻は病を理解しようとしない杜撰さが後に大きな悲劇を生み出す原因と成る)

妻なんざに頼ってられないので、次の千葉リハビリテーションの診察日に主治医の和田先生に私は『和田先生!!俺は左側が暗闇に成っていて左側の物が全く見えないんですが、己なりに調べた結果では半側空間無視同名半盲ではないですか?』と問いてみたら和田先生は『半側空間無視では無く同名半盲の疑いが極めて高いので病院内の眼科で検査を致しましょう』と動きは迅速だった。

で日取りが決まり眼科の検査をしたのだが面白い検査内容だった、黒い箱の中を両目で覗き込み、真っ暗な中で大きさも様々だが、星の様な光が左から流れてきたり右から流れて来るのたが、流れて来る光が見えたら予め手に持っているボタンを押して下さいとの事で一先ずは検査を終え・・・視力検査に移行したが、右目『1・2』左目『1・0』と視力には何ら問題は無いが眼科の医師が述べるには『大事故たる目に遭い右脳が壊死してしまい目の視神経が切断されてしまいまして・・・これは紛れも無い同名半盲にて御座います』と告げられ私は返す刀で、いずれか・・・この視神経とは繋がるものですか?問いてみたところ、この眼科の医師は『今の医学では完治する事は不可能です。大変済みません』と頭を下げられた。

即ち『不治の病』を抱えてしまった事と成り併せて高次脳機能障害の本を熟読し常に検索したインターネットで高次脳機能障害の症状からの全貌全てを読んだ限り・・・私は『不治の病を二点も抱えてしまったのか・・・』と己自身に降り掛かった事の重大さを徐々に気付き始め未来への暗澹たる絶望を感じ始めた私『高野憲一』・・・。

今後・・・まだ幼い娘達の事を一体どうやって一人前まで育て上げるのか!?『なつき』が6歳に『あさ』が生まれたばかりだ・・・。

 

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神々しい臨死体験と奇跡の生還!!


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耳や鼻から大量の血を流して意識不明の重体の昏睡状態で成田ニュータウン日本赤十字病院に運ばれ死線をさ迷った私だが、この意識不明の重体の最中『神々しい臨死体験』を致した。

臨死体験とは人によっては『三途の川を見たり』『綺麗なお花畑を見たり』『御先祖達が迎えに来たり』『魂が抜けて天井から己の肉体を見たり』それこそ多種多様・・・様々なのだが私は昨日の様に決して一生忘れられない臨死体験だった。

先ずは既に肉体から魂が抜けていた様で、行った事が無い見知らぬ寿司屋に一人で入ってレモンサワーを注文し呑みながら寿司や刺身を粛々と食い始めた(後に一体どこの寿司屋だったのかも判明される)

そして・・・寿司屋を出た瞬間に何もかも全てが急変しておりガラリとロケーションが変わった・・・。

それは『黄金の砂が果てしなく続く地平線のかなたまで全てにどこまでも敷かれ続けられていた』この時点で私は短パンのポケットに手を入れて突っ立っており、その黄金の砂の美しさを観察する程『意識不明の重体』の筈が極めて冷静だった。

そして四方八方のあらゆる方向から『黄金の光』が黄金の砂に照らし光が差し込んでいるので瞬発的に空を見上げたら、あらゆる白い雲の雲間の様々な角度から沢山の『黄金の光』が黄金の砂に照らしているので『これは・・・ただ事では無いぞ!!一体何が始まるのだ!?』と強く意識をし引き続き突っ立っていたら・・・前方8メートル先の左から『大きな緑の龍』が、ゆらりゆらりと飛来して来た(下腹部は白色だが灰色がかっていた)

そして正面8メートル先にビタっと停り、この緑の龍の横顔を見たら口から生えている髭が黄金の砂に着く程、長く垂れ下がっていた。

意識不明の私だが、この龍を冷静に観察をし鱗なども様々見て『これは・・・相当神格の高い老龍が現れたなぁ・・・』と直感的に感じた(小学生の頃から龍とは神の化身だとは認識していた)

そして・・・この緑の龍が、横顔からぐるりと顔だけをこちらに向け大音声で『お主を生かしてやる!!』と私に告げ・・・去って行った私は神々しい臨死体験をし『死亡するのは、ほぼ確定されていた最中』医者達や事故現場検証をした成田警察署の人々は御臨終だと思っていたので大層ぶったまげさせたという『夜中に意識が回復』し私は奇跡的な生還を果たしたのである。

後から聞いたのだが親父(実父)などは、この日に産まれて来る『次女の出産と憲一は入れ替わりに成るだろう』と既に覚悟をしていたぐらいだった・・・。

そして奇跡的な生還を果たした朝に妻が産婦人科(松岸レディクリニック)に何とか外出許可を出してもらう為に説得をして『外出願い』をし日赤まで駆け付けて来た(後にブログを更新して行く過程で赤裸々に全てを述べるが、この時はまだ離婚はしていなかった)

そして元には成ってしまったが妻から次女を無事に出産を果たし名前は『あさ』にしたとも告げられ『2人ともこの世で生きていて本当に良かった』と妻と喜びを分かちあった。

して私が『あの事故現場に一緒に俺と居たなつきはどうなったのだ!?』(長女)と妻に質疑応答を繰り返した所『憲ちゃんの事を跳ねた車の運転手の前方不注意・脇見運転であり男は同じく成田ニュータウンに母親と2人で暮らしている20歳前半の会社員であり即座に逮捕され、なつきは全くの無傷であり、憲ちゃんを跳ねた乗用車の後ろをたまたま偶発的に走っていた乗用車の奥さんはなつきの友達の母親で、即座に車を停め『なつきの顔を見て娘の友達のなっちゃんだ!!と確認をし声を掛けて頂き、なつきが『パパが車に車に跳ねられて名前をいっくら呼んでも一切返事が無いのよ!!』と泣きながらこの友達のママさんに訴え掛け、なつきを保護して下さり妻が入院している産婦人科に連れて行っても出産したばかりの『高野直子』の元に連れて行っても出産目前なので面倒を見切れ無い筈だろうと良き判断をされ、同居をしていた『小倉義生』『小倉和子』(即ち妻の両親なので祖父・祖母に成る)の元へ車で送ってくれたので『か擦り傷一つ無かったなつき』は無事に自宅に戻れた(この火急の危機を迅速で対応して下ったママさんの自宅には退院後に菓子折りを持参し家族4人で赴き深々と御礼を致した)

そして日赤での入院生活が始まったのだが水も含めて飲み物は暫く一切飲まない様にと厳重に告げられたので喉の渇きが非常に辛かった。

食欲も全く無く病院から朝昼晩に出てくる飯も殆ど食わなかったので栄養補給や水分補給はどう対応したのかと言うと全てが点滴で対応された。

ふと気付いたら『チンポコには尿管が入っていて、なんと・・・おしめまで穿かされていた』然し、この『おしめ生活』でも私は大便する時は生まれつき綺麗好きな性分の私は、おしめを外してから大便をしていた。

そして一週間後に『脳圧が上昇してしまいこのままでは脳内破裂をしてしまうので極めて危険で生命が危ないので圧力を逃す手術を致します』と告げられ複雑な手術内容を妻や親父や妻を日赤から詳しい説明を致し、それぞれ承諾書にサインや判子を押した。

その手術内容とは三日三晩は全身を徹底的に冷やし続けた後に頭蓋骨の一部を取り外し、その取り外した頭蓋骨を厳重に冷却保存をし無事に脳圧が下がったら、一旦取り外した頭蓋骨を再び嵌めるというSF映画みたいな手術だ(全身を冷やされ続けている時は私はガタガタガタガタ震え続けていて、その私の姿を見て余りにも可哀想で見ていられない思った妻は医者や看護師に掛け合って、せめてもの毛布ぐらい掛けさせてくれませんかね?と交渉をしてくれたが日赤病院側の答えはどこまでもNOだった)

暫くは頭蓋骨の一部が無いので陥没している見てくれだった手術時に全ての髪の毛を切られていた、ほぼスキンヘッドの私の姿だった。

一旦、頭蓋骨を外す為の手術での痛みには耐えられる程の痛みだったのだが、逆に頭蓋骨を嵌め込む手術は『本当に麻酔が効いているのか?』と思うぐらい激痛が走りっぱなしだった。

元々、頑丈な身体なので痛みには強い私でも手術室からベッドに乗せられて出て来た時は一族の前で大声で『頭がいてぇよぉ!!』と手術を終わるまで推移を見守っていた親族に叫んだくらいだった。

それにしても両方の手術が無事に成功したのには私の命がまた救われた訳だ(この手術は開頭した瞬間に脳が破裂しまう事もある危険な手術)

そして日赤で入院生活をしながら脳外科の主治医に診て貰っている質疑応答をしていると右脳が壊死してしまうと細胞を回復させるのは今の医学では不可能ですと脳外科の主治医に伝えられ私は『退院して即座に仕事に戻ります』と告げたところ『今の高野さんは、お一人で突っ立っているだけや歩行していたら間違い無く保護をされてしまいますので、お一人では電車すらも乗らないで下さいね』と強い御達しがあったが、己自身の能力の低下による自覚症状がまるで分かって無かったので俄然『即座に仕事に復帰する思いは捨て切れ無かった』

そして・・・妻の直子が娘達を連れて、ほぼ毎日の様に御見舞に来てくれていたのだが、その過程で『パパの言動が余りにもおかしい事を家族は察知し始めた』

今と成っては笑い話みたいなエピソードは沢山有るが、例えば妻が御見舞に来た時に『今日さぁ中山秀征(芸能人)がさ日赤に取材をしに来て俺に声を掛けて来て取材を受けたよ』と真剣な眼差しで妻(直子)に詳しく語ってみたり、妻から『パパ今買って来るから1番何が飲みたいの?』問われれば『ライオンジュースが飲みたい』と言い始めたりする言動の繰り返しを続けた(ライオンジュースなんざ一体どこで販売しているのだ?と今では笑い話に使っております)

これも妻から後で聞いた話なのだが、病院に私の御見舞には娘達を連れて帰りは3人で車で帰るのだが(自宅から日赤までは車で13分程度の距離)決まって『帰りの車中では大爆笑の渦』だった様で、特に長女のなつきは『パパさ・・・ヘンテコな事しか言わないから笑いを我慢するに大変』だと常に述べていた事を3ヶ月の退院後に妻から聞いた(笑)

主治医と妻が同席し診察を受けている過程で、私の日頃のその言動や行動には主治医や看護師達が着目し『高野さん!!心理テストを受けましょう』と指示され心理テストを受けた(心理テストとは知能指数・言語性・動作性・数値を検査し、その人間の能力検査の事を指すので心理テストを受ければ、その人の能力が一目瞭然に分かってしまう)

結果から言うと、それぞれの数値を照らし合わせて一般的に知能指数が『100』なくては成らない知能指数が『50』しかなく『中度知的障害』に該当するらしく総合的に見て『高次脳機能障害の疑いが極めて濃厚です』と診断され千葉県では高次脳機能障害を特化している『千葉リハビリテーション』に転院を勧められた。

3ヶ月間の日赤での入院生活の中で一緒の部屋だった入院患者さん達の皆さん方『脳患者さん』だらけであり、そこは・・・まるでサバンナの世界で在った。

誰も居ないところに向って朝昼晩ひたすら文句や怒鳴っている女性患者が居たり、不快な歯ぎしりを永遠に行っている男性患者や、隣のベッドに寝ていた男性患者も起きている間中『独り言』をずっと喋り続けている男性患者が居たりと総じてサバンナや動物園の様相だった(今・・・思うと人間は脳に強い外傷などを受けてしまうと・・・あぁ成るんだなぁと)

意識不明の重体から日赤に救急車で運ばれ死線をさ迷い神々しい臨死体験をし奇跡的な生還を果たし脳圧を下げる為の手術を2回経て、約1ヶ月ぐらい経過した時に自分の『携帯電話』(ガラケー)が無い事に気付く・・・早速、御見舞に来た妻に尋ねたところ『憲ちゃんの携帯電話は現場検証をした成田警察署が事故現場をいくら捜索しても携帯電話は見付からないところを見ると車との正面衝突の大事故により携帯電話は破壊されてしまった可能性が高いですね』と言われたと私に告げてきたので、私は妻に向って『1ヶ月間も俺と連絡が取れないと俺が死線をさ迷う程の交通事故に遭った事を高野家一族達には十分に知れ渡っている筈だが、それ以外の友人達・知人達は全く連絡が取れないので蜂の巣をつついた周囲は大騒ぎに成っている筈だから、即座にauショップに行って携帯電話の可能ならばデータの復旧と新しい携帯電話を購入してくれたまえ』と強く訴え掛け一週間後程度に妻が新しい携帯電話を日赤に持って来て早速、携帯電話を開いてみたら、一体どの様な方法をされたのか未だに謎なのだがデータは全て復旧されていた。

して携帯電話を開くとそこにはメールや着信履歴が爆発的に『130件』以上は入っていた・・・。

だが・・・これら登録されている友人達・知人達の筈なのだが私には顔すら全く覚えていなく・・・一向に思い出せ無いので、早速・・・一件一件(計130件)丁寧に片っ端から電話を掛けて『俺とは過去にどの様な人間関係でありましたか?』と先ずは尋ねる事から始まり今の己の置かれている現況の全てを語り『4月19日に自転車を押して坂道を登っていたら前方不注意・脇見運転の乗用車に正面衝突をし跳ねられ意識不明の重体のまま日赤に救急車で運ばれ死線をさ迷い奇跡的な生還を果たし脳圧を逃がす為の2度の手術を乗り越え只今、成田の日赤に入院中なんだよね・・・』と事の経緯を全て話したのだが、多大なる心配をされていた様で電話口では何人も何人も様々な人々が『命が助かって本当に良かったね』と泣かれておられた。

して私が日赤に入院している事が瞬く間に広がり早速、様々な分野の友人達・知人達が日赤に御見舞をしに乗り込んで来られた。

例えば私はとあるSNSで趣味の歴史が講じてコミュニティを立ち上げ定期的に歴史の定例会を開催していた幹事だったので各都道府県に友人達が沢山存在した(遠くは北海道や広島県から主に都内で開催する私が陣頭指揮を執った定例会に馳せ参じて来て下っていた)

して入院生活の中で頻繁に御見舞に来てくれていた妻や様々な人々が、当時眠っているばかりの私が睡眠から覚めるまでベッドの横で起きるまで待っていてくれたのだが、イザ!!私が起きると右側の御見舞客には即座に気付くのだが、左側の御見舞客が居たのを声を掛けてくれないと気付かない事が多々発生した、例えば便所に行く時に病室の入口の廊下で妻や御見舞客とバッタリ会った時にも彼等が左側に居る場合だと私は気付かないまま便所に行こうとする事が多々有り、彼等から私の名前を呼んで声を掛けられて・・・やっと気付く有り様だった、して、それを度々目撃したり確認をしてきた妻がやはり病室の入口で妻の存在を気付かぬ私に向って『憲ちゃん左目が見えていないんじゃないの?』と問われたが私は『たまたまなんじゃないの』と、素っ気なく返答し己自身が一体どんな人間に成ってしまったのかを根本的にまるで分かっていなかったまま日赤病院の3ヶ月間の入院生活が終わり次の転院先の『千葉リハビリテーション』に入院するまで一旦身支度をし入院準備をする為に自宅に見てくれは頭は髪の毛すら無くスキンヘッド状態で頭には手術によりメスを入れ切ったり縫ったりした少なくとも30cmの傷跡に体重は55キロ有ったのだが40キロにまで激減し骨と皮状態の身で車で迎えに来た妻と義父と娘達の『なつき・あさ』と一緒に車に乗り自宅に帰る途中に私が入院中ずーっと我慢していた大好な煙草を真っ先に吸いたくなりセブンイレブンで車を停車させ即座にセブンスターとライターを購入し表の灰皿で立て続けに2本の煙草を吸った(何かと不自由で行動をされ続けていた日赤病院から一日も早く帰宅をしたかった事も実現をし、この最高の至福の瞬間は一生忘れられない一服と成った)

そして至福の一服を済ませ『退院祝い』に帰宅途中に存在する『華屋与兵衛』に連れてってくれた。

病院の味気の無い物ばかりしか食ってなく大好きな生の海産物を欲していた私は軽く海鮮丼の二杯を瞬間的に平らげた(これまた最高の至福の瞬間だった)

妻の実家(成田市)に私は毎月『15万円』を入れて(なつきが生まれてきてからは7万円にした)妻の『直子』と私と長女の『なつき』と妻の両親の小倉義生と小倉和子と暮らしており義理の弟(妻の弟の小倉佳祐)と住所が一緒なので、この義弟が自賠責保険に加入していたので、その特約で私に弁護士(合間弁護士:かんま先生)が早い段階から付いて下さった(この先生は千葉市に法律事務所を構える極めて優秀な頭脳の持ち主の弁護士だと徐々に理解して行く過程が在る)

この特約の中では例えば日赤に立派な大きな沢山の花が私に向けて保険会社から届けらりたり『3万円分』の本や書籍などを好きな物を買って下さいと通達されたので入院中は大好きな歴史の本を妻に『これとこれを買ってきてくれたまえ』と頼んで購入して貰ったのだが・・・イザ!!本を読むと一行目を読んで二行目を読み三行目を読むと・・・直ぐに一行目に何が書いて在ったのかを直ぐに忘れてしまう状態に陥っていて、歴史の本は元々『500冊』は所持し時間さえ有れば毎日の様に読むぐらい読書が大好きな私だったのが・・・文章が全く頭に入らないどころか語彙は広かった私が、その文章をいっくら読んでも何を述べたいのかの本質や意図が全く理解が出来なかったので、いくら入院中で激暇な私でも積まれた本の数々を読まなく成ってしまった経緯が在る・・・。

入院中は障害者に成る前から好きでずっとやっていた携帯電話からでも気軽に出来るインターネットの麻雀ばかりを講じていた(ジャンナビ)

そして千葉リハビリテーションに入院するまでの一週間は入院するに当たって揃えなければ成らない必需品を同病院に書き記された文書に沿って記載された通りに全ての品を買い揃え購入し保険会社が責任持って支払って頂いた(電気カミソリからパジャマまで様々な日常品)

で千葉県では高次脳機能障害に精通している有名な千葉市緑区の存在する『千葉リハビリテーション』への入院日を迎え購入した大きな荷物を持ち妻に車に乗せられ病院に赴いた。

到着し先ずは今後、私の主治医に成られる脳外科医の『和田先生』と面会を致した。

自分の名前を書かされたり簡単な計算問題や間違い探しの絵や積み木の組み合わせなど一般常識の通念・概念などを尋ねられ色々と質疑応答をされた(今思えば簡単な心理テストから入って質疑応答をし私の能力や知能指数を試してきたと思える)

だが・・・自覚症状がまるで皆無な私は和田先生に向って『入院生活は懲り懲りで明日からでも仕事に行きたいのです』と告げたが、やはり日赤病院の脳外科医の医師が述べた通りの見解を示し『仕事なんてとんでも無いですよ!!一人では決して電車にも乗らないで下さい!!必ずや保護されてしまうだけです』と告げられ立て続けに『明日から数々・・・沢山の心理テストを受けて頂きますので一つ宜しく御願い致しますね』と今後の流れを和田先生より伝達された。

 そもそも私には『心理テスト』たる知能指数・言語性・動作性のそれぞれの数値が如実に如実に表されるテストの存在すら知らなかった事から始まり・・・とは既に書き記してはあるが日赤の医師には『高野さんは中度知的障害者に該当致しますね』と告げられた時の私の知能指数は100が一般的な健常者の最中・・・僅か知能指数が『50』しか無かった(即ち健常者の能力の半分たる身)

そして和田先生との面会を終えて、次に高次脳機能障害者のリハビリを請け負っておられる心理発達科の副部長の女性の『大塚先生』との面会が始まった、ここでは見た事も皆無なプリントされている紙をテーブルに出され数字の番号が不規則・ランダムに書かれており色々な方向に並んでいるのを鉛筆で線を引いて順番通りに繋げてって下さいと大塚せんは仰るので、私は鉛筆を持って行ってはみたが・・・①から始まり②を探し出し線を引いて書いて繋げるのが・・やっとやっとで有り様であり、今度は②から③を繋げなければ成らないのも既にヨタヨタ状態でした(今では考えられない程、鈍重だった)

この大塚先生とのファーストコンタクトからの人物像やイメージとは『母性に満ち溢れた母の様な方だな』と直感力の鋭い私は・・・そう感じた。

この日はコレで終わり次の日から嵐の様な心理テストを迎えるのである。

 

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私(高野憲一)が高次脳機能障害と同名半盲に成った原因・要因

                                                         
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皇紀2669年(2009年)平成21年4月19日(日)・・・忘れもしない・・・私(高野憲一)が健常者から一瞬にして急転直下し『高次脳機能障害』と『同名半盲』たる『障害者』に急転降下したという・・・ある日、突然・・・降って湧いた様に障害者に成ってしまった決して忘れられない悲劇の日なのである。

 

子煩悩と謳われていた私は長女『なつき』を片っ端から様々な場所に連れて行く中で、この日は鉄板で連れて行く恒例の『成田太鼓祭』の日(自転車で15分程度)なつきの事をいつも通り自転車の後ろに乗せ成田太鼓祭に赴いた訳だ(当時なつきは6才)

行きは難無く『なつき』を自転車の後ろに乗せて行き午前中には成田駅に到着し自転車を駅前のセブンイレブンに停め、参道まで歩きこの様々な有名な団体が乗り込んで来る成田太鼓祭に『なつき』に迫力満点の和太鼓を徹底的に堪能させ、夕方に成田太鼓から離脱する事を決め(午後6時)不思議な事にこんな事は今まで一度たりとも皆無だったのだが、ここから奇跡が始まる・・・私が『なつき』に対して『今日は帰りは自転車を押して歩いて家に帰るぞ一旦、自宅に帰ってから産婦人科に行くからな』と、なつきに告げ私が自転車を押しながら2人でトボトボと歩き始めた(こんな事を何故になつきに告げたのか私でも到底考えられないが既に奇跡が起こり始めていた)

 

因みに、この日は次女(あさ)が産まれる日。

成田駅から家まで徒歩で帰る場合は優に30分は掛かる。

家に帰るに当たって、最後の坂を超えれば最早、家とは目の鼻の先なのだが坂に登る前に2人でコンビニに寄りコンビニを出て相変わらず『なつき』の事を白線の内側に歩かせトボトボと坂を登り始めた、ここでも第二の奇跡とも言える『なつき』は、子供がよく行う縁石に乗りフラフラと遊びながら坂を登り始めた(コレが、なつきが全くの無傷で済んだという奇跡的な運命を決める一因と成った)

私が、この二車線でも無い一方通行でも無い坂道の白線の内側にて自転車を押して更に『なつき』の事を内側に歩かせるシチュエーションを想像して欲しい。

午後7時付近・・・坂道の中腹に差し掛かった時に私と押していた自転車だけ車に正面衝突を喫し跳ねられた訳だが跳ねられた瞬間は全く記憶には無いが、いずれにせよ私は『普通乗用車』に跳ねられた(私と自転車丸ごと)

長女なつきは縁石で歩いていたので『かすり傷一つ無かった』(後に知る)

いずれにせよ私は時速50㌔代の車に跳ねられた!!

閑静な住宅地(成田ニュータウン)で凄まじい衝撃音が鳴り響き沢山の人々が家から出て来た事も後に知る。

車に正面衝突を喫しフロントガラスに頭が直撃し私はたちまち『意識不明の重体』に陥り耳や鼻から大量の血を流し119番に通報され救急車で成田ニュータウン成田赤十字病院に意識不明の重態のまま運ばれた。

後に知るが私が救急車で運ばれ成田赤十字病院に運ばれ医者達は『申し訳御座いませんが手の施し様が無いです』と見解を既に示し都内の高野家一族を呼び出し改めて医者達は一族に向け『大変恐縮で言いづらいのですが今夜・・・お通夜の御覚悟をされて下さいませ・・・大変・・・申し訳御座いませんが・・・我々には手の施し様が御座いません・・・。』と医者達が居並ぶ高野家一族に告げる(元々、私は実家が常に都内の都内育ちのバリバリの都内っ子)

この時、私が車に跳ねられた病名は『急性硬膜下血腫』に『脳挫傷』に『頭蓋骨2本骨折』に『右脳の壊死』『左肩肩甲骨の骨折』『左足膝下骨折』たる文字通り死線をさ迷った・・・。

この時、意識不明な重態の死線をさ迷っている最中、一生忘れられない『神々しい臨死体験』もする(詳細はブログを更新してゆきながら順番に書いてゆこう)

 

追伸:高次脳機能障害者・同名半盲者に成ってしまった余りにも過酷過ぎる『悲しき男』の未来を如実にも赤裸々に語り、皇紀2676年前から存在したで在ろう高次脳機能障害者・同名半盲者を日本国に広く知り渡って頂く為、私の様に悲惨な未来を回避させんが為、かつ後世の人々に伝達して行きたいので、この度ブログを立ち上げて本の出版をする事に身を託しましたm(__)m

 

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